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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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養和元年(1181)京都で亡くなった清盛の遺骨を円実法眼が持ち帰って山田の法華堂に納めたと『吾妻鑑』にあり、山田を和輪田の誤りとする人は、この塚が墓所だと考えてきた。しかし、大正十二年の調査で、この清盛塚は墳墓でないことがわかった。この十三重の石塔は、弘安九年(1286)の銘を持ち、神戸市電の道路拡張工事で現在地に移った。昭和四十七年柳原義達作の清盛像も脇に建てられた。





 

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義経がどこで首を検めたかは、調べましたが、わかりません。
敦盛の首は、その後淡路島の煙島で、荼毘にふせられた。
はずだから、このお寺の首塚は、どうかと、
義経腰掛の松、800年前のか?まあ言い出したらきりがない
なにか、根拠があるから言い伝わったのでしょう。
歴史の浪漫ですね。














義経駒つなぎの松 ひよどり墓苑の高尾山のお地蔵さんの左側にあります。
ここからは、鷹取山、須磨アルプス、垂水、淡路島がよくみえます。
一の谷への進路としては、どうかと思いますが、神戸、平野方面に
攻めるのには、よいかも。義経と違う源氏の武将が、通ったのかな。
鷲尾三郎が、藍那からこちらに案内した?
私ですと藍那から白川にぬけ、名谷か妙法寺に案内したほうが、
一の谷に近いと思うのですが







昔の野田村には、地蔵堂長福寺、観音堂正福寺、薬師堂満福寺、
の三か寺があつたが、満福寺だけ残り他の二か寺は廃寺となり、
満福寺に引き継がれた。この寺は平清盛の創建と伝えられている。
寺記には天文五年(1536)とある。
長福寺は海運山といい、いまの海運町の町名はこの山号からとつている。
寺の塀が亀甲形の石積みとなっていることから別名「亀の甲寺」とよばれている
名谷の明王寺の銘の入った釣鐘がある。地震で釣鐘堂は、崩壊したまま。
阪神大震災の慰霊碑もあります。








明石市立天文科学館へ続く歩道沿いに、「馬塚」と標された石碑と標識あります。
平経盛の子である平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたという。
経正の墓とかがこのあたりにあってもおかしくない。
ここも明石藩主松平忠国の創作かもしれない。





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