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養和元年(1181)京都で亡くなった清盛の遺骨を円実法眼が持ち帰って山田の法華堂に納めたと『吾妻鑑』にあり、山田を和輪田の誤りとする人は、この塚が墓所だと考えてきた。しかし、大正十二年の調査で、この清盛塚は墳墓でないことがわかった。この十三重の石塔は、弘安九年(1286)の銘を持ち、神戸市電の道路拡張工事で現在地に移った。昭和四十七年柳原義達作の清盛像も脇に建てられた。