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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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高塚山の頂上のあたりに後期古墳時代の横穴式石室の古墳がありました。
神和台にもありましたが、開発が遅れるのでだまって潰しました。
神和台の古墳は、2から3ありました。そのあたりを開墾していたら、
金の経筒がでてきたそうです。京都の博物館にあると
聞きましたがどこか知りません。
子供の頃 その山に登って、みたら大きい石がごろごろしていました。
柚耶の里の裏山あたりか。狐塚と呼んでいました。
高塚山の古墳の近くに蛇神社がありました。
その手前に盗掘された穴があったのは、
覚えてますが、ほかは、山みたいで解りませんでした。
開発の波にのり、潰されましたが、その前に発掘調査がおこなわれ、
多くの石室が発見されました。なかには、石に絵を描いたものもありました。
昔の神戸市だと一部を保管し公園でもした
<舞子のきつね塚 大歳山古墳>
いまの神戸市は、震災でお金ないもん。あかんは。
石室は、西区の神戸市埋蔵文化財センターの前に再現されてます。

所在地 垂水区名谷町中山の奥 



昭和49年ごろ


昔の記憶と昭和49年の写真で位置確認





 

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発掘の時は、仕事が忙しくて見に行けなかったので。
神戸市教育委員会文化財課 埋蔵文化財の高塚山古墳群発掘概要
からです。

















高塚山展望台の裏



暴かれた古墳の中には、石室に絵がほってあったり、
火葬したあとなどがみつかりました。







神戸市埋蔵文化財センターの前に
もってこられた高塚山古墳の横穴式石室です。
垂水区名谷町中山の奥の山の中にありました。このあたりを造成するのに、
発掘調査をした後にここに再現されました。
高塚山展望台の下の公園か今度の造成地の公園に井上おもしろ館の先生に
http://www5.ocn.ne.jp/~omoshiro/index.html
石室のレプリカ作ってもらおか。
昔のものが、だんだんなくなっていきます。
死ぬまでに、垂水の事かききれるかなー。






養和元年(1181)京都で亡くなった清盛の遺骨を円実法眼が持ち帰って山田の法華堂に納めたと『吾妻鑑』にあり、山田を和輪田の誤りとする人は、この塚が墓所だと考えてきた。しかし、大正十二年の調査で、この清盛塚は墳墓でないことがわかった。この十三重の石塔は、弘安九年(1286)の銘を持ち、神戸市電の道路拡張工事で現在地に移った。昭和四十七年柳原義達作の清盛像も脇に建てられた。





 

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