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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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兵庫の津北浜の産土神として、応保三年(1163)、平清盛が福原遷都計画と共に、築島の大工事が無事竣工した事により、神恩感謝のため、自筆の南無七明神の神写と金幣を併せて奉納した。
平家一族の崇敬特に厚き事。  「平家物語巻六経島の事」より。


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1180年平清盛が、福原へ遷都しようとした際に、
運河
の開鑿を行おうとした。
ある夜、童子が平清盛の枕元に現れて、
「兵庫の海中に霊仏があるのでに探し出すように」との夢告があり、
海に網を下ろしたところ、
海中から黄金の薬師如来像が出現した。
平清盛はその霊験に感心し、
「これぞ当地の守護仏ならん。永く、地を定め、
一宇を起こして安置し祈願せん。」と言い、
当地にお寺
を建立したのが
金光寺の草創とされる。




平清盛は、この寺院が京都の鞍馬と同じように、
都の乾(北西)の地にあったので新鞍馬と呼び、
福原の都を護る霊場にして、1,000石の寺領を与えた。
妙法寺も、観応の変の最中の正平6年(観応2,1351)に、
尊氏の軍に焼かれ、8坊だけになった。
元禄10年(1697)に再建されたが、
現在は、円蔵院を残すのみになっている。
 
神戸市文書館より。




能福寺は清盛出家(浄海)の寺です。
一ノ谷の合戦で能福寺は、焼かれ清盛墓所も潰されされました。
百会年後の弘安九年(一二八六)二月、平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ
時の執権北条貞時が、その近くに一基の石塔を建て、
清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書にあります。
境内には、清盛の供養塔、忠快法印の供養塔、兵庫大仏、
浜田彦蔵による英文碑、北風正造の碑、滝善三郎の碑など、
謂われのある石碑、石塔、建造物があります。









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