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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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一の谷の合戦に敗れた平家の名将、平忠度が西へ落ちる途中、
源氏の武将岡部六弥太忠澄に見つかった。
忠澄は、源氏の者と思ったが、忠度がお歯黒を付けていたので平家とばれ、
忠澄と組み伏せ、首を討ち取ろうとしたが、
逆に忠澄配下の雑兵に右腕を切り落とされ、返り討ちに遭い死ぬ。
昔は、ここに小川が流れていたらしい。









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色々調べたがいま一つわからない。
可能性として、地元の人が安寿さんとよんでいる東光庵が、怪しい。
郷土研究家の川口陽之氏も赤石のくにの中でここが怪しいと書いている。
臨済宗(禅家)南禅寺派の垂水の青木寺の分院の尼寺だった東光庵。
 宝暦年間(約250年前)、
将軍徳川家治の時代に初代寿仙尼が庵をむすんで以来、 7代続きました。
時代背景から考えると平家が滅んで源氏の政治権力中 おおびろく清盛を祀ることは、むつかしく密かに祀られていたのであろう。
時代が流れ世間が平和になった江戸中期に庵を作り弔ったのでは、
庵は阪神大震災で倒壊した。今は、再建されている。
昔の庵のなかに清盛の像らしきものが、あったらしが今はない。





垂水・須磨には、義経が休んだとか座った所の伝説がたくさんあります。
名谷の中山の転法輪寺から太山寺にぬける山道にもありましたが、
今は小束山6丁の公園になってます。公園にするならのこしてもらいたかった。
開発は、なんでも潰していく。




五色山古墳のあたりにあったらしい。
そこには、昔の西垂水の墓もあった。
遊女となっているが海女 昔は、男ももぐっていた 貝を取るために
海で死んだ人の供養搭だと古書にある。
墓を守る墓太郎<五輪搭・田舎の墓によくある。>でしょう。


菅原道真が九州にながされたとき、海路で行っていたがへ海が荒れ一時須磨に上陸、松の木の下に網を巻き、その上に休息させた。後に彼が天満天神として祭られるようになったとき、
そのことにちなんでここに彼を祭神とする天神社が979年(天元2年)に創建されたと伝えられている。
ここから明石までは、陸路で行く明石の駅の役人が塩屋の浜まで迎えにきた
それにちなんで菅公橋とよんでいる橋がある。2号線の塩屋駅の東








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