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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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勝福寺(経ヶ島協力寺
永延二年(988)、太政大臣藤原伊尹(ふじわらこれただ)の三男の藤原英雄丸(ふじわらえいゆうまる)が勅命により、証楽上人(しょうらくしょうにん)と改め、高取山麓に庵を建て、鹿松峠(かのししまつとうげ)に出没していた鬼人を仏教の力で退散させた後に開基した寺と謂われています。平清盛が経ヶ島築造の際、この寺の衆徒達が大いに協力したので、重要文化財となっている金銅製の密教法具のほか築島供養式の際の幡などが寄進されています。また、平知章(たいらのともあきら)の甲冑も所蔵している















これは、太平洋戦争の時の防空ゴウの跡今は、お不動さんをまつってある。

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新平家物語の中に通盛の妻・小宰相を、教経は駄五六に通盛の詰める
明泉寺まで案内させることに。駄五六は、帰りに逃げ出し山のなかで
鷲尾三郎ら義経の軍団に見つかりともに道案内をする。
東山の古明泉寺大日丘の地にあったが
寿永三年(1184)二月七日明泉寺合戦で
平盛俊が陣をおいたたため戦火で焼けた。
また十六歳の知章が父知盛を助けて逃れさせ、
討ち死にした場所が近くあったのでこの寺に持ってきてまっている。









垂水・須磨には、義経が休んだとか座った所の伝説がたくさんあります。
名谷の中山の転法輪寺から太山寺にぬける山道にもありました
1184年(寿永3年)2月7日未明、 源義経一行は多井畑厄除八幡宮で戦勝祈願をした後、
この松の木の下で休息を取り、一ノ谷に向かったと伝えられている。
村人は、この場所に社を作り「ほんがんさん」の愛称でお祀りしている。
宝筺印塔があるので源氏の供養搭では?
名谷の奥畑の大歳神社にも同じ伝説がありこちらは、道案内をした佐藤家の古文書にある。
名谷の奥畑の松風・村雨の子孫の在原家の古文書・家系図にもしらされているので。
何日間は、このあたりに義経が、滞在していたのであろう。





平重衡は、清盛の五男である。仁王の乱を鎮圧し、同年末には南都を焼打して奈良の大仏も焼失させるなど平家の主力として活躍した。
一の谷合戦では、東門生田の森を大将知盛・副大将・平重衡で守った。
源氏にやぶれ、重衡は馬で逃げる。後ろから源氏の兵が追ってくるので、
仕方なく西の湊川、苅藻川を渡り蓮池を通過して
須磨の関所へと逃げていった。源範頼の家来、庄三郎家長によって、
馬に矢があたり、生け捕られてしまった。
松の根に腰をおろして無念の涙を流す重衡をみて
村人がどぶろく一杯さしあげたところ、
「「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨でのむこそ 濁酒なれ」 」
と詠んだと伝えられる。
その後、鎌倉に送られ、翌年、輿福寺・東大寺ボンさんの要求で奈良に連れて行かれる途中、木津川で処刑された。

 



善楽寺・平清盛供養塔
天台宗の寺で、明石では最も古いお寺である。
平清盛ゆかりの地で福原京のころ安芸の巌島にお参りに行く時ここで休んだ。
火災で堂塔が焼失 その後播磨守に任じられた平清盛は、善楽寺を再興、
この頃当寺には、清盛の弟教盛の子忠快法印が寺僧としており、
養和元年(1182年)に亡くなった清盛の供養のため巨大な五輪塔を建てた。
平清盛供養塔の横に明石入道の碑もある


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