垂水・明石近辺の歴史探訪
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
平重衡は、清盛の五男である。仁王の乱を鎮圧し、同年末には南都を焼打して奈良の大仏も焼失させるなど平家の主力として活躍した。
一の谷合戦では、東門生田の森を大将知盛・副大将・平重衡で守った。
源氏にやぶれ、重衡は馬で逃げる。後ろから源氏の兵が追ってくるので、
仕方なく西の湊川、苅藻川を渡り蓮池を通過して
須磨の関所へと逃げていった。源範頼の家来、庄三郎家長によって、
馬に矢があたり、生け捕られてしまった。
松の根に腰をおろして無念の涙を流す重衡をみて
村人がどぶろく一杯さしあげたところ、
「「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨でのむこそ 濁酒なれ」 」
と詠んだと伝えられる。
その後、鎌倉に送られ、翌年、輿福寺・東大寺ボンさんの要求で奈良に連れて行かれる途中、木津川で処刑された。
PR
この記事にコメントする