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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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1934年(昭和9年)4月21日、年)夢野台高校と神戸高校と
神戸市立第二高等女学校(現・須磨高校、略称:市二)寄贈された。
太平洋戦争末期の物資窮迫が強まった時代、
金属の提出で小学校の二宮金次郎銅像がすべて陶製になる中、
市二の静寛院和宮像はこの時代による提供を免れられた
数少ない像であった
しかし終戦後、GHQによる占領政策で
この像が没収されるのを恐れた有志が
当校の静寛院和宮像を隠し、占領政策が終了する
サンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)4月までその状態は続いた。
占領時代が終わり、源平合戦・湊川の戦いに関わりのある
須磨区「一ノ谷」の土地所有者が楠公精神に共感し、
1954年(昭和29年)4月11日
一ノ谷」に「寄手墳・味方墳」をハイキングコース脇道に建立。
この時に静寛院和宮像は占領時代に隠匿していた有志の手によって
、その寄手墳・味方墳の間に設置された
(そこに置かれた経緯については不明)。
その後、2000年12月に一ノ谷2丁目自治会によって
須磨区一ノ谷町2丁目の一の谷公園内に場所を移して
公開安置されている。
なお、この像については戦中混乱期から現在まで不明な点も多く
一の谷公園内に安置されている像が本当に当校県二時代に置かれていた和宮像であるのか、
確証が無いのが実情である(市二での像、または県一での像という可能性も否定できない)。
事実、一の谷公園内の皇女和宮像の説明文では
「なぜこの像が山中にあったのか不明である」
兵庫県立夢野台高等学校 沿革より。
夢野台高校か、須磨高校か、

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須磨寺のお大師さんにいきました。
山門の手前のお寺のお線香です。
燃え終わると字がでてきます。


      
舞子の浜辺には、大正6年(1917)に呉錦堂が建てた別荘がある。
明石大橋完成後に、元の場所近くに復元された。
この建物は、六角堂とか八角堂といわれているが、
実際は正八角形の三階建てで八方に窓がある。
窓から展望する六甲山系・淡路島・大阪湾・紀州などの風景は、
さまざまな趣をもっているので「移情閣」とも呼ばれている。
呉錦堂は、中国の新江省の出身で、明治18年(1885)に来日した。
彼は行商をしながら蓄財し、その資金で貿易を始め、
難辛苦の末に成功して関西財界の大立て物になった。
出世した呉錦堂は私財を投じて、故郷の中国や、
神戸の学校(中華同文)を建設することにも尽力した。
また、神戸市内の神出町の小東野(こそくの)の山林を開墾し、
約80町歩を耕地化して入植者に住居を建てて無償で住まわせるなど、
多くの社会事業に力を尽くした。
彼は、中国革命の父と仰がれる孫文を支援し、
大正13年(1924)に孫文が来日した時は、移情閣に招いて
歓迎会を開いた。
その際に孫文孫文が自筆した「天下為公」の碑は、
今、舞子公園内の孫文記念館前に移されている

                               神戸市文書館より
これでは、普通のブログです。そこで名谷の猿倉にある
呉錦堂の墓探しに出かけます。
垂水ゴルフ場から八代学園にぬける道沿いにあります。
どの墓かと思いましたが、広いのですぐわかりました。
呉錦堂の墓、中国にもあるそうです。
垂水の墓は、その子孫の墓が、ありました。















義経がどこで首を検めたかは、調べましたが、わかりません。
敦盛の首は、その後淡路島の煙島で、荼毘にふせられた。
はずだから、このお寺の首塚は、どうかと、
義経腰掛の松、800年前のか?まあ言い出したらきりがない
なにか、根拠があるから言い伝わったのでしょう。
歴史の浪漫ですね。














相生の松は根は一つにして、幹が雌雄二つに分かれる珍しい松。
一つの幹は海辺に生える『黒松』。もう片方は山に生える『赤松』。
種類も違うし、植生地も違う、生まれた環境などは関係なく縁のある人との
『出会い』を大切にし、相生の松のようにかわらぬ操を
夫婦妹背のためしとするもので、夫婦愛と長寿の願望を表してます。
松葉は枯れて落ちても離れないため、境内に落ちている松葉を持ち帰ると、
縁結びのご利益があるとされています。  高砂神社ホームページより

謡曲 高砂 
「高砂や此(この)浦船に帆をあげて 此浦船に帆を揚げて
 月諸共に出で汐(しお)の 波の淡路の島陰や 
遠く鳴尾の沖すぎて
早住の江に着きにけり 早住の江に着きにけり」
物語は阿蘇の神主友成が上京の途中に高砂の浦に立ち寄った際、
相生の松の下を掃除していた老翁と老婆に相生の松について尋ねると
この松だと、言います。
高砂の松と住江<大阪市住之江区>の松とは、
離れているのに、なぜ相生の松と言うのかと聞くと
老翁は高砂で、老婆は住江、遠く離れて住んでいても
夫婦の心は通い合い、非情の松であっても相生の名がある。
まして人間の夫婦においても松と共に相生の夫婦となるもの
松のめでたさ、御世のありがたさを教えます。
このような事から、結婚式の結納に高砂、老夫婦人形
「夫婦の堅い絆や長寿を願うもの」としてあります。
ちなみにうちのは、コシノ綾子のやつでした。














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