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平清盛は、兵庫に都を移して、中国と貿易をしようと考えていました。
港をつくるのに会下山の南にあった塩槌山を切りくずして、
その土砂を海へ運ぶことになりました
潮の流れが速く工事がうまくいかない。清盛は陰陽博士に占わせてみました。
島を築くには、海中の竜神の怒りをしずめなくてはならない。
そのためには、三十人の人柱を、海にしずめて竜神に供えるとよいだろう。と言われ
清盛は、生田に関所を設けて、人柱にするために旅人をつかまえ始めました。
清盛の側近少年、讃岐国の武将の子、松王丸(まつおうまる)という十七歳の少年が、
つかまえられた人たちの悲しみを見かねて、三十人の人柱の身代わりになりましょうと
言った。
松王丸は、石の櫃に入れられ、白馬の背に乗せられて港へと運ばれましたそして、
千人の僧侶の、読経(どきょう)する声がひびく中で、海の中へとしずんでいった
境内には平清盛の孫師盛を供養したと伝えられている塚と石板仏がある。
この石板仏は3つに割れて一片が欠けていたが、
平安時代末期から鎌倉時代初期の作で、神戸最古の石造美術と言われている。
那須与一、扇の的を射る平家物語歴史館ホームページより。
一の谷で敗れた平家は、淡路にそこで、敦盛と何人かの首を源氏から届けられ
福良湾の島で焼いた。煙島と言われるようなった。
その後四国に渡りうえの話となる。源平合戦のち那須与一は、出家し
源平合戦の跡地を訪れ仲間の供養をする。
妙法寺に来た時病気になり、ここで死んだ。このような話よくある。
那須与一がどこで死んだかは、さておき、ここの横のお墓には、
多くの無縁さんや、五輪搭がたくさんある。戦で勝った源氏の者が残っていたか。
村人が源氏に協力したのでは。
名谷でも奥畑は、源氏に他の村は、平家で五輪搭があっても無縁さんです。