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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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菅原道真が左遷され、その道中、須磨に上陸した際、
須磨の旧家・前田家から井戸の水をくんで差しあげたところ、
大いに喜ばれて自画像を前田家に与えたといわれています。
前田家では、その井戸を「菅の井」と名付け、
この水で銘酒「菅の井」を作って毎年太宰府天満宮へ
献上していたと伝えられている。
この前田家の前に植えられていたカキツバタは
街道を往来する人たちに親しまれ、
「須磨の前田のカキツのなかにアヤメ咲くとは知らなんだ、
咲いてしおれてまた咲く花は須磨の前田のカキツバタ」
などと唄われたそうです。                 須磨観光協会より
須磨警察の跡地の横、長田神社のとなり、
埋められてしまうかも知れない。










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義経駒つなぎの松 ひよどり墓苑の高尾山のお地蔵さんの左側にあります。
ここからは、鷹取山、須磨アルプス、垂水、淡路島がよくみえます。
一の谷への進路としては、どうかと思いますが、神戸、平野方面に
攻めるのには、よいかも。義経と違う源氏の武将が、通ったのかな。
鷲尾三郎が、藍那からこちらに案内した?
私ですと藍那から白川にぬけ、名谷か妙法寺に案内したほうが、
一の谷に近いと思うのですが







昔の野田村には、地蔵堂長福寺、観音堂正福寺、薬師堂満福寺、
の三か寺があつたが、満福寺だけ残り他の二か寺は廃寺となり、
満福寺に引き継がれた。この寺は平清盛の創建と伝えられている。
寺記には天文五年(1536)とある。
長福寺は海運山といい、いまの海運町の町名はこの山号からとつている。
寺の塀が亀甲形の石積みとなっていることから別名「亀の甲寺」とよばれている
名谷の明王寺の銘の入った釣鐘がある。地震で釣鐘堂は、崩壊したまま。
阪神大震災の慰霊碑もあります。








明石市立天文科学館へ続く歩道沿いに、「馬塚」と標された石碑と標識あります。
平経盛の子である平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたという。
経正の墓とかがこのあたりにあってもおかしくない。
ここも明石藩主松平忠国の創作かもしれない。





平清盛の弟経盛の子
兄は、琵琶の名手、経正 明石で自害に。
弟は、笛の名手敦盛 須磨で討ち死に16歳
三兄弟とも源平一の谷の合戦で戦死しています。
この合戦で鵯越えの守備についていた経俊だったが戦利あらず、
長田の森を経て西出の浜へと落ち延びてきた。
しかし、源範頼の郎党・名和太郎に追い迫られ、
勇ましくも組み打ちとなったが当地で落命した。
わずか18歳であった。
この五輪塔は経俊の霊を慰めるため
南北朝時代(1300年代)に建てられたものだそうです。
ここにもビリケンさん が祀られております
このビリケンさんは、平成17年に本殿の裏から発見さたばかりです。
空洞の体内に 
永政天大、昭和5年10月5日、ピリケン菩薩 
と書かれた小石が入っており、
おそらくその頃のものと推測されています。
高田屋嘉兵衛が海上交通安全を祈って奉納した、
一対の石灯篭もあります。











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