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垂水・明石近辺の歴史探訪 
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須磨寺のお大師さんにいきました。
山門の手前のお寺のお線香です。
燃え終わると字がでてきます。


      
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舞子の浜辺には、大正6年(1917)に呉錦堂が建てた別荘がある。
明石大橋完成後に、元の場所近くに復元された。
この建物は、六角堂とか八角堂といわれているが、
実際は正八角形の三階建てで八方に窓がある。
窓から展望する六甲山系・淡路島・大阪湾・紀州などの風景は、
さまざまな趣をもっているので「移情閣」とも呼ばれている。
呉錦堂は、中国の新江省の出身で、明治18年(1885)に来日した。
彼は行商をしながら蓄財し、その資金で貿易を始め、
難辛苦の末に成功して関西財界の大立て物になった。
出世した呉錦堂は私財を投じて、故郷の中国や、
神戸の学校(中華同文)を建設することにも尽力した。
また、神戸市内の神出町の小東野(こそくの)の山林を開墾し、
約80町歩を耕地化して入植者に住居を建てて無償で住まわせるなど、
多くの社会事業に力を尽くした。
彼は、中国革命の父と仰がれる孫文を支援し、
大正13年(1924)に孫文が来日した時は、移情閣に招いて
歓迎会を開いた。
その際に孫文孫文が自筆した「天下為公」の碑は、
今、舞子公園内の孫文記念館前に移されている

                               神戸市文書館より
これでは、普通のブログです。そこで名谷の猿倉にある
呉錦堂の墓探しに出かけます。
垂水ゴルフ場から八代学園にぬける道沿いにあります。
どの墓かと思いましたが、広いのですぐわかりました。
呉錦堂の墓、中国にもあるそうです。
垂水の墓は、その子孫の墓が、ありました。















菅原道真が左遷され、その道中、須磨に上陸した際、
須磨の旧家・前田家から井戸の水をくんで差しあげたところ、
大いに喜ばれて自画像を前田家に与えたといわれています。
前田家では、その井戸を「菅の井」と名付け、
この水で銘酒「菅の井」を作って毎年太宰府天満宮へ
献上していたと伝えられている。
この前田家の前に植えられていたカキツバタは
街道を往来する人たちに親しまれ、
「須磨の前田のカキツのなかにアヤメ咲くとは知らなんだ、
咲いてしおれてまた咲く花は須磨の前田のカキツバタ」
などと唄われたそうです。                 須磨観光協会より
須磨警察の跡地の横、長田神社のとなり、
埋められてしまうかも知れない。










朝霧の自転車保管所の東下のあたり。
お不動さんがまってある。
このあたりを造成するときに大きな池をたくさん埋めたらしい。
それらの池の神をまとめて祭ってある。
池で水死した人もまつってある。一人で行くとちと怖い感じ。
神戸市文書館で紹介されているが、潮守さんとごっちやになっている。
もう一度しっかり調べてきます。




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